表紙はじめに講演内容質疑応答反響に対して資料請求先


3.【講演後の反響に対して】 3/8


【センス・オブ・ワンダー】

 さて、評論家・冬樹蛉氏からは、 「今後5年間これはSFではないといわない」ではなく「今後5年間センス・オブ・ワンダー( SOW )といわない」のほうがよい、との提案をいただいた。

 合宿企画では「SFの本質は SOW にある」という森下一仁氏の考えそのものに疑問が呈されていた。実はこのこと自体、私には意外だった。不勉強ながら、これまで森下氏の『思考する物語』に対して公の場で発表された明確な批判や反論を見たことがなかったので、SFファンの大部分は森下理論に賛同していると思っていたのである。しかし、合宿企画参加者で『思考する物語』を読了されていた方は、残念ながら少なかったようで、これまでもあまり議論の対象にならなかったのかもしれない。

 SOW とフレーム理論については、 「日本人とアメリカ人は違うフレームを生きているのに、実際は言葉が通じ合っている。瀬名は森下理論を字義通りに受け取りすぎているのではないか」との批判もあった。ただし、これは私の仮説を否定することにはならない。言葉は通じていても、わかりあえないことがあるのは日常茶飯である。

 もっとも、私自身、講演で話した仮説を心から信じているわけではない。議論のきっかけとして提出したに過ぎない。 SOW という、SFファン以外の者にとって鵺のような得体の知れない感覚を、少しでも理解したいとの思いからである。私自身は、「SFの本質は SOW にある」という森下氏の出発点そのものは非常によいと思う。そこからどのように理論を構築してゆくかが問われているのだ。

 冬樹氏はこの件に関して、自身のウェブ日記( 2001 年 5 月 3 日付)で非常に示唆に富んだ論を展開した( http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ray_fyk/diary/dr 0105_1.htm#010503 ) 。私の仮説はなにもSFだけに成り立つわけではないので、SFのわかり合えなさを規定するには不適当だというのである。冬樹論によれば、私たちはこれまでの経験や読書体験から、それぞれフレーム・オブ・リファレンス( FOR ) を持っている。 バリエーション豊かな認知のフレームを持ちうる読者は、第一に既成の FOR を豊かに持っていなければならない。 FOR の持ち方次第で、小説の描写に対する反応度も違ってくる。SFや純文学などが一般にわかりにくいといわれてしまうのは、認知のフレームの組み変わりという高度な現象以前に、各々の読者がFOR を共有していないところに起因するのではないか。これらのジャンルは読者に対して「基礎教養」を要求しがちなのである。

 そして冬樹氏は、SFの特殊性として、 「同一人物が当然併せ持っているとはあまり考えられないようなFORを、読者に平気で要求するところなのではないだろうか?」 と指摘している。興味深い意見だと思う。

 ただし、それではなぜSFだけが(他のジャンルと違って)特徴的に読者に要求するのか、という疑問が残る。単に内輪受けだということではあるまい。ここでもやはり、SFを理解する特殊な「能力」の存在が論の背後に見え隠れしてしまう。

  なお、作家・倉阪鬼一郎氏の指摘は興味深かった。さまざまなジャンルから SOW についての意見を集めてみたい気もする。また個人的には、ハードSFファンと「普通のSFファン」 (後述)が SOW をどのように捉えているのか知りたい。両者に明確な差があるのか、あるいはないのか。


backnext