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【スライド 27(3)/45】 文芸編集者インタビュー調査


【SFと「神話」】
 それから取材を進めるうちに「神話」というキーワードが何度か出てきました。唐木さんからは「時代小説とSF小説は非常に似ている」という話がありました。どちらも物語性を重視している(ここで唐木さんが挙げたSF作家は、山田正紀、半村良、栗本薫)。一方、ミステリーはあまり物語性を問わない。島田荘司さんが売れるのは物語性が強いからではないか。SFファンはひょっとすると時代小説でも満足できるのかもしれない。それは「神話」というものと関係があるのではないか、といいます。これはハードSFには当て嵌まらないかもしれませんが、もっと大きな括りのSFには当て嵌まる話かもしれません。確かに海外でも、ジョン・ジェイクスやロバート・シルヴァーバーグのように、SFから時代小説に転身してベストセラー作家になった人がいますね。

 祥伝社の加藤さんのお子さんは、『新世紀エヴァンゲリオン』を見て突然「日本書紀」や「古事記」を読みたいといい出したそうです。これを聞いて加藤さんは、いまの若い人たちは「神話」を求めているんじゃないかと思ったそうです。昔はいろんな事を考えていく時代で、哲学書も売れていたし皆読んでいた。それなのにいまの時代は哲学がない。だからそういう基盤が若い人たちにない。若者は何もないところからスタートしている。だからいま、彼らは自分たちの神話が欲しいのではないか。SFというのはそういう「神話」になりうる可能性がある。自分はそういう彼らに新たな神話を創ってあげたい、とおっしゃっていました。

 これに似たことは文春の津谷さんも指摘しています。昭和50年代までは「思索的」な時代だった。学生や一般市民がいまよりも「ものを考える」時代で、それがSFに対しても大きな追い風になっていた。ところがいまは、エンターテインメント小説市場でもストーリーの派手さばかりが好まれて、作品に込められた作家のメッセージを軽視するような傾向があるのではないか、というのです。


【小説の情緒性とSF】
 これは、小説の情緒的な読まれ方、ということにも少し関係しているような気がします。幻冬舎の方々のご回答が象徴的なのですが、SFに対して「期待することは特にない」、「だれもSFと名付けられたものを読みたくない」、「いまの人たちは自分に近いものしか読みたくない」「共感できるSFが読みたい」と、かなり辛辣な意見ばかりです。これを見て思うのは、情緒的な読み方ができる小説がいま売れている、好まれている、ということです。しかし一方で、タクト・プランニングの深澤さんは、こういった情緒だけの小説の読み方を批判しています。物語をつくること、それをきちんと読み解くことがいかに大変なことか。深澤さんは『SFバカ本』を編集していらっしゃいますが、SFには難解な部分とばかばかしい部分の両方が必ず備わっていなければならないといいます。いまは読者の理解力が低下してきて、SF映画でも難しいものがなくなってしまった。小説も情緒的な読み取りが幅を利かせている。でも本当のSFはテキストで読んだほうが面白いはずだ、というのです。僕はこの分析に共感を覚えます。この他、ふたりの女性編集者から「SFというとどこか男の子っぽいイメージがある」との指摘がありましたが、これはかつてのSFが難解で硬派な部分を強調していたからかもしれません。

 実は面白い現象があるのですが、『SFが読みたい! 2001年版』で僕が作家の野尻抱介さんや菅浩江さんと座談をしたとき、野尻さんから「瀬名さんはすごく情緒的な人なんじゃないか、すぐに登場人物が叫んだりする」と指摘されたことがあります。これ以降、ウェブでは「瀬名の作品は情緒的」という批判がぽつぽつと現れるようになりました。批判の理由として「情緒的」という言葉が使われるようになったのです。いままで僕の小説に対してこのような角度から批判を投げかける人は(編集者を含めて)いなかったので新鮮でした。SFファンから見ると、僕の小説は情緒的なのでしょうか? 野尻さんの影響力の強さもあるのでしょうが、これは非常に興味深い問題で、ここに僕とSFファンのディスコミュニケーションの秘密が隠されているような気もします。


【SFを如何に売るか】
 今後どうやってSFを売っていけばいいか、ということについて、有益な意見をいろいろと伺うことができました。
 角川の宍戸健司さんは、ちゃんと短篇をやれとおっしゃっていました。宍戸さんは角川ホラー文庫を立ち上げるとき、短編集を意識的に続けて出すことを実践しました。あまり知らないジャンルに手を出すとき、短編は取っかかりになりやすい、だからシャープな切り口の短編集を出すのがいいのではないか、というわけです。これは有効だと思います。

 他のアイデアとしては、各社で一斉にSFを出して、売れているように店頭で見せかける、というもの。これはただし、各社の足並みが揃わないとうまくいきません。足並みを強制的に揃える努力が必要で、これについては後で述べます。

 それから徳間書店の大野修一さんは、徳間デュアル文庫について次のように仰っています。
「“現実と折りあいの悪いティーンエイジの読者”もしくは現実と“折りあいの悪いティーン時代の問題点を、折りあいをつけたり切り捨てたり出来ないままに育ってしまった大人の読者”にとってこそ、SFは必要とされるだろう。(中略)つまりまとめますと、『SFならではのアイデアを、魅力的なキャラをつかって描いた、青春小説を、ビジュアルに気をつかって出す』ことが、有効ではないか」
 “現実と折りあいの悪いティーンエイジの読者”にデュアル文庫を向けていきたいという、このご発言は素晴らしくて、僕はすごく感動しました。

 それからタクト・プランニングの深澤真紀さんは「21世紀は変態とクィアの時代だ」と。森奈津子さんがすごいのは、あの変態性を容易に理解できないところだというわけですね。これはなるほどと思いました。ああいうのはミステリーでは駄目で、SFでなければうまくいかないと。それからSFというのは、エンターテインメントのジャンルの中で一番最後に出てきたジャンルであって、人類が成熟してきたからこそ出てきたジャンルなんだという話が出ました。人類が成熟したからこそ生まれたジャンルで、SFだから人類にいえることがある。来た道と行く道を考えさせてくれるけれども、前向きでも後ろ向きでもなくてもいい。そういうことをSFならできるんだとおっしゃっていました。

 この他、僕が注目したのは、SFとアメリカの資本主義との関係を指摘した祥伝社の近藤誠さん。「伝奇」というのは祥伝社がつくった言葉で、当時は編集部で「SF」という言葉が禁句だったというご指摘。あと、深澤真紀さんが「いまのSF作家はオーラがなさ過ぎる。大沢在昌さんや北方謙三さんのような作家も必要悪だ」とおっしゃっていたことも印象に残りました。



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