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3.【講演後の反響に対して】 5/8


【SFは何を与えているか】

「SFオンライン」に掲載された野尻抱介氏のレポートは、さまざまな点で考えさせられるものだった。 印象的だったのは、野尻氏が私の意見や発言、行動内容に対して、特に異論や反論を積極的に示さないことである。次のような文面が象徴的だ。

「瀬名氏について多くが思うことは「なぜSF(SF界の反応)にそんなにこだわるのか」だが、瀬名氏は「SFにはずいぶん楽しませてもらってきたのでこだわりがある」と答えている。しかしこの経歴からすると、ずいぶんというほどでもない。そう義理立てしなくてもいいのでは、と思うのだが、これからわかるとおり瀬名氏はとてもまじめな人なのだ」「私にはとうてい真似できない行動力だが、瀬名氏は小説だけを書いているのでは気がすまない人なのだ。当人の気がすまないことに他人が口を挟んでも詮無いことである。こういう人なのだと思うしかない」

  私が示した「SFへの提言」 (スライド 42 )に対しても野尻氏は建設的な意見を返さず、以下のように戸惑いを見せるだけである。

「……というわけだが、どう受けとめればいいのだろう。私に関しては現状のSF界でちっとも困っていないので、よしやろうという気にはなれなかったのだが」

 正直なところ、このくだりはさすがに脱力してしまった。これはつまり、SF界はいまのままで充分で、外部からの変革提言・意見交換は特に必要ないということなのだろうか。そうだとしたらコンタクトも何も無意味で、ただ単にお互い宇宙空間の中で無視しながら平和に通り過ぎていったほうがいい。

 2001年6月、私は作家の川端裕人氏と対談する機会があった。川端氏は対談の準備のため、私(瀬名)に関する情報をウェブでサーチしたのだという。そこでSFセミナー講演に関する記事を多数見つけたようだ。川端氏はかつてSFをよく読んでおり、高校生の頃にはSF大会にも参加したことがあるという。だが現在はSFと離れた位置で作家活動を続けている。

 対談後、一緒に食事をしているとき、SFの話になった。講演で紹介した徳間書店・大野修一氏の構想「“現実と折りあいの悪いティーンエイジの読者”もしくは、“ 現実と折りあいの悪いティーン時代の問題点を、折りあいをつけたり切り捨てたり出来ないままに育ってしまった大人の読者”にとってこそ、SFは必要とされるだろう」について、川端氏が「僕はそれと違って、早く大人になりたかった」とコメントしたのが印象的だった。また、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』が世界を変えたかどうかについて私が話を振ったところ、非常に興味深い意見が返ってきた。すなわち、サイバーパンクの「パンク」とは、俺は俺の考えを貫き通すのだ、他人がどうであろうと知ったことではない、という考え方だ。パンクは世界を変えたか?フォークは世界を変えた。だがパンクは世界を変えていないじゃないか、と。

 これには目を開かされた。また川端氏はさらに対談後の私信で、 「今、SF界は、ほかの世界観を持った人との接点を探す努力をしないことがあたりまえになっているような気がしてなりません」 と指摘している。もちろんこれは印象論でしかないわけだが、このような印象を持たれるという事実は重要視するべきだと思う。

 編集者へのインタビューを総合してみると、どうやら読者がSFから離れていったのは 1980 年代で、SFがわからなくなったと多くの人が感じ始めたきっかけのひとつはギブスンの『ニューロマンサー』だったようだ。このあたりからSFは、世界を変えてやろうという気概が薄くなり、自分たちだけで楽しめばよいという風潮になっていったのではないか。リアルタイムで別の世界観と接触し、意見を述べ合い、接点を見出す努力を怠るようになってしまったのではないか。

 もっとも、最近は「世界を変えよう」と思って変える時代ではなく、 「世界」のことなど考えもしない人々が結果的に世界を変える時代だといえないことはないが、そうだとしても変えるだけの絶対数や個々の小さな行動力は必要だろう。いまのSFに絶対数や個々の行動力があるようには見えない。

「SFはSFファン以外の人に何を与えているか」との問いかけに対し、ウェブで反論があがった。森下一仁氏がエスねこ氏( http://plaza11.mbn.or.jp/~scathome/ )のメールを 2001 年 5 月 8 日付のウェブ日記で紹介している( http://plaza5.mbn.or.jp/~SF/K0105B.HTM ) 。 エスねこ氏は、まず「世界の 9割 の人間は、SFに興味がない」ことを認めたうえで、だからこそ彼らへのアドバンスなしにSFというジャンルは成り立たないと指摘し、そして次のように述べている。

「他の小説ジャンルと違って、SFは大胆な突然変異を認めるジャンルです。それが、世界を本当に震撼させる。 『宇宙戦争』が、20 世紀の一大宇宙ブームの引き金と、牽引役になった事を考えてみてください。 『人間がいっぱい』が( 『ソイレント・グリーン』を触媒として、おそらく)ローマクラブの石油枯渇予測をセンセーショナルに注目させて、オイルショックを引き起こした原因になった点も。 『ニューロマンサー』が現代の(極端にビジュアル志向な)PCに落とす影も、指摘できます。真の空想科学には世界の人々のビジョンを変えさせるだけの、ものすごい力がある。社会の中にじわじわと染み入ってきて、そのビジョンなしには成り立たなくなるような「モノの見方」を提供できるんです」

 これはよく指摘されることであり、まあその通りだろうとは思う。エスねこ氏はさらに、その後SFは「浸透と拡散」が起こり、初期のような「場外ホームラン」を目指すことをやめ、短期的な勝負だけをするようになってしまったと嘆く。そして 1950 年 代のSFが社会に与えてきたアドバンスを次のように分析する。

「SFに興味のない人々に、SF自身はどういうアドバンスを与えてきたか? (中略)

  『人間以上』や『イシャーの武器店』や『ファウンデーション』……50年代の(SFファンのメンタルな部分をつかんだ)典型的なSFは、 「 コミュニティ」の物語が多い。憑かれたように、弱者の集まる、不思議で居心地のいい小集団の物語を綴ります。 (中略)ゲットーと言われた世界です。世界を震撼させるような知識を持ちながらも、世間からは疎まれて、身を寄せ合い、好戦的な主張には反対し、イデオロギー的な強い主張はせず、ただ毎日を幸せに生きていくことを旨とする……SFはこうして、仲間内に向けた「居心地のいい異世界」を提供してきたわけですけれど、これは、90年代を振り返ると、先進国の多くに広がったんじゃないでしょうか。 (中略)

  50年代SFは、物質的にも、精神的にも十分に世界へ拡散したと思います。この景観が「世界の9割の人々」に対するアドバンスでなくて何なんでしょうか。世界規模でみんなが「世界全体を良くしたい」と思わせるようなビジョンを提供する、50年代のSFが群れとなって普通の人々へ叫びながら行ってきたのは、そういう事なんじゃないでしょうか。

  かなり大局的な例になってしまいましたが、私の考えを煎じ詰めると「SFの存在は個人体験としてではなく、集団全体が体験する時に本当の価値を発揮する」という事なんです」

 小集団(居心地のいい異世界)を描いてきたのはSFに限ったことではないので、これを(他のジャンルではなく)SFのアドバンスだとするエスねこ氏の論にはやや無理があるように思う。同じく森下氏のウェブ日記( 2001 年 5 月 13 日付)には、伊藤正一氏による次のような意見が紹介されている。

「そもそもSFが社会的にインパクトのある”モノの見方”を提供してきた、とは言えても、そうしたヴィジョンがSFだけに特権的に付随するものなのかどうか。これはもう少し考えてみる必要があるのではないでしょうか?  人々の無意識を反映し、なおかつそれに働きかけてきたという点においては、ぼくはホラーやファンタジーも、SFと同じような影響を社会に与えてきたと考えています。

(中略)なぜSFだけが他の小説ジャンルと比べて特別であり、なおかつ”社会を震撼”させることにこだわらなければならないのか?  その答えがエスねこさんと違い、いまのぼくには見えないのです。

  小説というものが、まず書き手に高尚なヴィジョンや知識がなければならず、それを大衆に伝えるべきものだとするなら、そこにはなにやら教条主義的な匂いを感じます」
http://plaza5.mbn.or.jp/~SF/K0105C.HTM

 これに対してエスねこ氏は、森下氏のウェブ日記( 2001 年 5 月 15 日付)で再度意見を述べている。

「 (前略)世界の万人が共有できる知識の体系が「科学」と呼ばれているわけです。 (中略)だから、私にとってはSFが集団体験であるというのは、とても自然に見えるんです。少なくとも「科学」の器の上に乗ることができる、全ての人間が読者となる物語です。 (中略)私が先のメールで挙げた例は、あくまで、みんなが納得するSFの効用例を挙げようとしたら教条的にならざるを得ない、という事に過ぎないように思います」
http://plaza5.mbn.or.jp/~SF/K0105C.HTM

 もちろん科学「だけ」が集団体験の基盤とはならないだろう。かつては科学の明るい未来が積極的に語られていたが、いまは日常を生きるうえで、人間が科学の恩恵に浴していると自覚している人は少ないと思う。ここにもやはり時代の影響はあるし、また森下氏が日記で指摘しているように、SFの読み手と書き手では自ずと思い入れの仕方も違ってくるだろう(エスねこ氏は小説を書いている) 。

 森下氏はウェブ日記( 2001 年 5 月 9 日付)で、「集団全体が体験するSF」の例として「鉄腕アトム」を挙げている。アトムは日本人のロボット観に大きな影響を与えたとはよくいわれることだ。 「少なくとも、研究者の目標として「鉄腕アトムをつくる」ことがあり、それが今の日本のロボット開発の方向をかなり決めているのは事実だと思われます と森下氏は書き、さらに続けて、マイナスイメージを持つものの例としてジョージ・オーウェルの『 1984 年』を引き、SFが「集団の体験」として機能している側面も確かにあると認めている。

「しかし、セミナーでの瀬名さんの問いかけは、そうしたことを有効にアピールできないSFの現状に危機を感じているからであるように思えました。世間は、自分たちがSFを体験していることを認識していないのではないか?  だから対策として、たとえば「SF作家たちが出版社や著者に関係なく統一したオビを使用する」 、 「新聞で定期的に全面広告を打ってSF作品をアピールする」といった提案をしてくださったのでしょう。また、きちんとSFの役割を理解している編集者が存在すれば危機は遠のくだろうから、若者はSF編集者を目指せ、と呼びかけたりもしたのでしょう(セミナーでの講演はそういうものだったのです) 。

 瀬名さん自身は「ホラーに恩義を感じている」とおっしゃっていましたが、その際のホラーというのはキングやクーンツのものではないでしょうか。 きわめてSF色の強いホラー。 そういう意味では、メリル編『宇宙の妖怪たち』やコンクリン編『宇宙恐怖物語』 、それにディック の恐ろしい短篇群に魅せられた私も、初期はホラーに染まっていたといっていいのかもしれない。

 それらをホラーと思わず、SFだと信じて疑わなかったのは、貼られていたレッテルが「SF」であったからというだけのことかもしれません。あの時代、SFが見せてくれるものは珍しく、魅惑的で、しかも恐かった。ただ、その「ホラー成分」の処理の仕方には、やはりSF特有のものがあった と思うのです。私にとっては、その処理の仕方が、特に興味深く、大事なものとなりました。そこで何が起っているのかを考察したのが『思考する物語』なのです」
http://plaza5.mbn.or.jp/~SF/K0105B.HTM

 森下氏の解説に加えることがあるとすれば、 「 いま」のSFに対する苛立ちや危機感が、講演時の発言には含まれていた。そして「社会」に何を与えているかという漠然とした投げかけよりも先に、本にまつわる人たちにとってもっと切迫した、もっと身近なこととして、 「小説そのもの」や「個々の読者」に何を与えているかを同時に問うたつもりであった。

 エスねこ氏は 2001 年 5 月 15 日付の文面でSFがホラーやファンタジーに与えた影響について若干触れているが、社会という巨大なもの以前に、まずはそういった部分がいまは重要なのではないかという気がしている。だが残念なことに、これらの議論で登場するSF作品は、せいぜい 1970 年代から 80 年代まで。「いま」のSF小説はどうした! と叫びたくなる。いま、この 21 世紀に作品を発表している作家たちの名前が、なぜ出てこないのか?


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